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【世界がふり向くアニメ術】インタビュー 友永和秀③

友永和秀さんの第3回(最終回)は『リトル・ニモ』、そしてボーナス・トラックとして、早くに亡くなった天才的アニメーター金田伊功さんのお話。

 

シネフィルWOWOWで毎月第一日曜のよる9時から放映中の「世界がふり向くアニメ術」。インタビュー・ゲストの面白いお話が番組だけでは紹介しきれないので、チャンネルのブログでテキストにまとめていこうと思います。

 

友永和秀(ともなが・かずひで)

1952年生まれ。1971年、タイガープロに入社、当時のTVアニメ『マジンガーZ』や『デビルマン』の原画を担当。1975年、オープロダクションに移り、『UFOロボ グレンダイザー』『マグネロボ ガ・キーン』等のロボット・アニメ、『未来少年コナン』等の原画を手掛ける。1979年、テレコム・アニメーションフィルムに出向し『ルパン三世 カリオストロの城』のカーチェイス・シーンを担当。1981年のTV番組「日生ファミリースペシャル 姿三四郎」で作画監督に。以後、数々の作品で原画、作画監督、絵コンテ等を担当し、近年の『ルパン三世 PART IV』(2015)、『ルパン三世 イタリアン・ゲーム』(2016)では総監督も務める。原画を担当した『どろろ』(2019)のオープニングも話題。

 

 

──それでは、その『リトル・ニモ』のお話を……。

 

先にも言いましたが、テレコム・アニメーションフィルムは元々『リトル・ニモ』を作るために出来た会社でした。東京ムービー(現・トムス・エンタテインメント)の社長だった藤岡豊さんが、予算の少ないTVアニメーションなんかで汲々としていたくない、世界に通用するアニメーションを作りたい!という野望を持たれていたんです。「じゃあ、それは何?」といっても確固たるイメージがあったわけではないと思うんですが、とにかくアメリカに行けばなんとかなるんじゃないかという(笑)。徒手空拳みたいな感じでね。それでジョージ・ルーカスに会ったり、ディズニーのプロダクションとわたりをつけたり。どうやってコンタクトを取ったのか分からないけど、いろんな有名な人を連れてきて。僕らは「ヘーッ」て感じで見てました。当時のアニメ業界にあんな人はいなかったですね。

 

僕も『ニモ』のスタッフに取り込まれまして、アメリカのスタッフと一緒に準備するんだということで。高畑さん、宮崎さん、近藤喜文さん、美術の山本二三さん、演出助手の片渕須直さんたちと一緒に向こうに連れて行かれました。いろいろカルチャーギャップを味わいながらやったんですけども。ひと月行っては帰って、またひと月行って帰って、そういう感じでしたね。実際にアメリカ人と一緒に絵を描いたり、ストーリー・ミーティングをやったり。

 

アメリカでの作り方を研究するということで、原画マンを10人くらい、ロサンゼルスのディズニーのスタジオに連れていってもらったこともありました。そこでは、いわゆる「ナイン・オールドメン」(=ディズニーの伝説的な9人の古参アニメーターたちをこう呼ぶ)のうちの当時まだ生きていた人たちや、後に『トイ・ストーリー』を作るジョン・ラセター、『アイアン・ジャイアント』のブラッド・バードなんかのレクチャーを受けたんですよ。もうどんなことを聞いたか覚えてませんが、ただ「ナイン・オールドメン」のフランク・トーマスとオリー・ジョンストンが、ディズニーの黄金時代にどうやってシーンを構築していってたかっていうのを芝居混じりに話してくれた。それは面白かったですねえ。オリーが「ディレクターからこういうシーンを貰ってきたんだ」って言うと、「それはどんなシーンだ?」ってフランクが覗き込んで、「おー、面白そうだな。じゃあ、キャラクターについてはどう考える?」「僕はこうだ」「僕はこうだ」なんて二人でワイワイ掛け合いをやるんです。「こうやったらもっと面白くなるぞ」なんて、そういうお互いの会話でキャラクターを膨らませていくプロセスを演じて見せてくれた。「いい先生たちだなあ~っ」て思いましたねえ。でも、日本とは全然作業の仕方が違うなあとも思ったものです。そういうディスカッションなんて日本の現場ではないですしね。日本人だと、意見を求められても「嫌われちゃうんじゃないか」と思って当たり障りのないこと言ったりするじゃないですか。だけど、彼らはそういうことを積み重ねて、キャラクターやストーリーを膨らませていくんでしょうねえ。

 

日本では一番偉いのは監督だと僕なんかは思ってたんですが、向こうはエグゼクティヴ・プロデューサーの権限がものすごく大きいんです。『リトル・ニモ』の初期段階においては『スター・ウォーズ』(1977)のプロデューサーだったゲイリー・カーツがその立場だったわけですが、とにかくその人が気に入らないとことが進まない。宮崎さんが出すアイデアもことごとくNGを出されて「オレはもう辞める」と。高畑さんは、やはりアメリカという市場に魅力を感じていたし、ディズニーの人たちの話も聞きたいし、レイ・ブラッドベリのストーリーやコンセプトにも興味があったし、ファンタジーの中にいかに現実感のあるシチュエーションを用意して、きちんと映像に落とし込んでいくかという意欲はあったと思うんです。ゲイリー・カーツが出してくるオーダーに対しても整合性がとれるように悩んで悩んで、だけど出す提案をこちらもことごとく否定されて、最後は「もう僕はやれません」と降りることになったんですね。高畑さんがアメリカを去ることになった最後の夜、高畑さんと近藤さんと田中敦子さん、片渕さんたちとミュージカルを観に行ったんです。それを見終わって高畑さんは「面白かったですね。それじゃ僕は帰りますから」と、翌朝、僕らが起きる前にはもう出発されて。そんな思い出がありますけれど。

 

今残っている、近藤さんと僕によるパイロット版は、あれは実はパイロットと呼ぶべきものではなくて、長編用にレイ・ブラッドベリが書いたストーリーの一部だったんですよ。映画のエッセンスを凝縮したような「掴み」の部分で、本編の大きな流れとはあんまり関係なく、そこだけ独立したシーンとしてあった。結局、レイ・ブラッドベリにもゲイリー・カーツにも降りて貰う話になった時に、竹内孝次プロデューサーが「ここまで積み上げてきたものを全部おじゃんにするのは嫌だ。今までの成果をなんらかの映像として残したい」と。それであの部分をスタッフの訓練も兼ねて作ったフィルムだったんです。パイロットとは当時呼んでなくて、テスト・フィルムですね。近藤さんが監督で、絵コンテは僕が切ったものが既にあったし、キャラクター・デザインや作画監督は僕、ということで、上がってきたキャラクターを整えたり直したり、動きのチェックみたいなことをしました。でも、基本的には近藤さんがやったんですけどね(笑)。僕の絵だって直したし。もともと絵の上手い、ものすごく上手なアニメーターですから。

 

──亡くなるのが早すぎましたね。

 

50歳になる前でしょう。あれだけ絵も上手いし、いや、僕なんかが上手いとか下手だとか言うのとはレベルが違いましたね。ステージが違うっていうか。人々の生活とか、生きてる感情をどうやって表現するか……そういうところに根ざした物の捉え方が本当にすごい。近藤さんが書かれた本なんかをお読みになると分かると思うんですけれど。僕なんかは表面的にカッコイイ絵を描けばいいじゃん、なんて思うんですけど、近藤さんは、もっと……やっぱり高畑さんの影響もあるんだろうし、もともと児童文学が好きな人でしたから、多分、見てる視点が違うんじゃないかな。今でも生きておられたらどんな仕事をされたかなーって、思いますよねえ……。『リトル・ニモ』をやってたときも、「これを何年経っても観られる映画にしたいんだ」と。アニメーションのスタンダードになるような作品にしたいという深い想いがあったんだと思いますけれど。あのテスト・フィルムを作ったあと、力尽きて去っていったんですよね。でも、その後、『火垂るの墓』(1988)とか凄い作品を作ってますからねえ。

 

──『リトル・ニモ』は最終的に1989年に長編として完成するわけですが(劇場公開時の題名は『NEMO/ニモ』)。

 

僕と富沢信雄さんが作画監督を担当しましたが、フルアニメーションだったし、台詞とのリップシンクも必要だったし、アメリカ流の芝居をさせなきゃいけないという、ちょっと経験したことのないようなものを、既に設定された劇場公開日までの一年足らずで作るということになりました。アメリカのスタッフは全部解散しちゃってるし、泊まり込みでなんとか仕上げたというのが正直なところです。これも若かったから出来たんでしょうねえ。今活躍してる『未来のミライ』の作画監督をやった青山浩行さんとか、まだ20代でしたから。ほかにも若いスタッフたちが付いてきてくれたんで、なんとかなったかなと。惜しむらくは興行的には上手くいかなかったんで、それが違っていたらテレコムという会社もまた別の方向に行ったのかも知れないなあ、という気がしますけれど。

 

『ニモ』のプロジェクト全体を振り返ってみるに、何もかもスムーズに行ってたら、日本のアニメの歴史が変わっていたかもしれません。あとで藤岡さんも後悔してましたけどね、高畑さんを逃がしたのは大きかったと。藤岡さんも迷いに迷って、アメリカのプロデューサーを取るか、高畑さんを取るかで悩まれたんだと思うんです。なにしろ初めてアメリカに打って出るというのは非常なプレッシャーだったでしょう。ハリウッドなんてそこだけで完結した社会だから、そこに乗り込んでいくのはかなり勇気がいったと思います。今は日本のアニメといえば重要なコンテンツで、アメリカにもファンはいるし、アメリカの監督だって宮崎さんや高畑さんを評価してる人は大勢いる。日本の作品がアカデミー賞にもノミネートされるくらいですからね。でも、その頃は「日本のアニメーションってなんだ? 『サタデー・モーニング・ショー』か?」なんて、土曜の朝に子ども向けにオンエアする二流三流のアニメーションくらいにしか見られてなかったですからね。そういう意味では藤岡さんの大冒険だったとは思います。でも、あれで高畑さんや宮崎さんが「アメリカのシステムはダメだ」と日本に帰ってきて、自分たちのやり方で作品を作ったら、逆に今やそれらが世界的に評価されるようになったんですから、皮肉なものですよね。

 

 

■ボーナス・トラック

 

──友永さんと並んで、アニメ・ファンに「動き」というものの面白さ、魅力を教えてくれたアニメーターに、金田伊功(かなだよしのり)さんがいらっしゃいます。

 

金田氏とは20代の頃、ちょうどいい時期に知り合って、「ああこんなヤツがいるんだ」ってライバル視してたんですけど、向こうはもっとこう人間の間口が広い人でしたから、そんな風には思ってなかったかもしれませんね。なんでしょうねえ~、彼なりの美意識みたいなものがあって、大塚康生さん的な動きの表現も好きだけど、出﨑統さんの作品のようなインパクトのある絵の表現も好きだったんですね。「アニメーションってなんだかんだ言ってある種の記号だから」って考え方が彼にはあって、リアルな描写の中に、パーン!と様式美みたいなものをうまく取り入れて、一番インパクトの残る部分を抽出して表現する。動きもそうだし、形もそうだし。だから、今の若い監督なんかでもリスペクトする人が多いですよね。彼と知り合ったのは本当に良かったなあって思います。僕は泥臭くグチャグチャ動かす方だけど、金田氏は自分の美意識にしたがってインパクトを重視して動かしていく。そういうのを見られただけでも本当に面白かったなあと。彼も50代の半ばで亡くなって本当に残念でした。今も生きていたらどんな表現をしていたかと思いますね。宮崎さんも、金田氏の原画には手を入れないぐらい、彼の動きのセンスに対しては何も言わないっていうくらいの人だったんでね。

 

動きにタメがありますね。それと、僕なんかはパースを理屈的に考えて消失点があったらこうなってなきゃいけないって思うんだけど、彼はそれをわざと壊すんです。パースは分かってるんだけど、それをわざと壊すことによって、インパクトを与える。また、画面の中に消失点があっちこっちにあるから、面白い画作りになる。上手いなあと思って自分も描いてみようとするんだけど、ああいう風にはならないっていうか、なかなか真似のできることではないですね。その不思議さはあります。

 

彼は自由人みたいなところがあって、あまりかっちりした会社にも所属しなくて、友だちでグループ作ってそれでマンション借りて、気が向いたら海外行っていろんなものを見たりとか、そういうのが彼の創作のエネルギーになってたのかなあ。だから誰かの下についてその人の技を一生懸命勉強するとかじゃなくて、もうちょっとフリーな感じなんですね。だからああいう表現が生まれたのかもしれませんが。そういう人はあんまり知らないですね。僕が知らないだけで、他にもいるのかも。ただ、今はもう時代が……アニメーターも管理がなかなか厳しくなったし、会社的にもそんな大らかな時代ではないし。突然いなくなったら仕事も来なくなるだろうし(笑)。まだ「アニメーションって何?」ってよく分からない時代で、逆に良かったのかもしれないですね。何でもありの世界だったから、いろんなタイプのアニメーターがいられたんでしょうねえ、金田氏も含めて。

 

 

聞き手:山下泰司(「世界がふり向くアニメ術」プロデューサー)

取材協力:トムス・エンタテインメントテレコム・アニメーションフィルム

 

 

「世界がふり向くアニメ術」はシネフィルWOWOWで毎月第1日曜日、よる9時〜オンエア中です(再放送もあります)。